今回は本の感想ではなく、最近思ったことを書こうと思う。

というのもよく日本人は、自分を表現したり議論したりするのが苦手と言われるが、それをつくづく感じさせられた出来事があったからである。


私の会社では毎年12月に全社研修というものが恒例行事になっている。


全国の営業所から大阪に全社員が集まって、その年の業績や翌年の基本方針の発表、外部から招いた講師による研修等を通じて全社員のレベルアップを図るのだが、何よりの目玉がグループディスカッションである!
当日発表される12~3名のメンバーで、あるテーマにそってディスカッションし、最後に役員も含めた全社員の前でコミットメントを出す。

今年もいよいよ全社研修が近付いて、去年コミットメントしたことがこの一年間でどの程度の達成率だったのかを、つい先日メンバーで集まって検証した。
限られた時間の中で「出来たこと」、「出来なかったこと」を報告書にまとめて役員に提出し、承認を得なければならない。
もちろん報告書に盛り込む事柄にも限りがあるし、一年間の集大成でもあるのだから読み手(この場合、主に役員たち)にも正確に伝わるように文章表現にも細心の注意を払う。


リーダーの「この事柄についてどの様に書いたらいいだろう?」という投げ掛けに対して、


ある人は「Aとしてはどうだろう」
と個人の意見を述べる。ここまではいいのだが、問題なのは、

また違う人が「Bとしてみてはどうでしょう」と、
前者の案と関連の薄い意見を述べることである。


限られた時間の中で早急に結論を出さなければならないとき、この様にただ単に思いつくまま案を出して行くのは間違いである。


後者は、A案があるのに何故B案を出したのかを説明しなければならない。

A案よりもB案の方が前進的で、最終案として相応しいという事が他のメンバーに受け入れられなければB案に取って代わることはないのだから、
それを説明出来ないのなら後者の発言は意味がない。

単に選択肢を増やし、ディスカッションを撹乱してしまう。




早い段階で皆に意見を述べさせ、出来るだけ沢山の案を並べるのは正しい。

だが話のポイントを発散させるのは最初だけで、やがては話を収束させていき、どこかに着地点を見出さなければならない!

これが結論となる。


話を上手く収束させて、きれいに着地する為には司会進行者(リーダー)に技量が要る。
もちろん司会進行者だけ結論を出すわけではないのだから、皆で一つの方向性を取ることを意識しなくてはならないだろう。


上述の後者の発言は、極端なはなしA案に対してYesかNoでもいいと私は思う。
もちろんYesならば話合いはスムーズに終りに向かうだろうが、角が立つことを覚悟でNoと言ったとしてもA案に納得し兼ねる人が居るということを知らしめるだけでも意義がある。

全員は無理でも、出来るだけ多くの人が納得できる結論を出すことが理想なのだから。


かなり偉そうに知った風なことをつらつら書いたが、生産的で有意義なディスカッションとはこのように議論が進められてはいないだろうか?


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