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著者:ニッコロ・マキアヴェッリ
訳:佐々木毅
出版社:講談社学術文庫
2004年12月10日発行

以前、マイクロソフト元社長の成毛眞氏が著書の中で、社長に就任した際に「徹底的に参考にした」と述べていたので気になって購入した本。

著者のマキアヴェッリは1497年、ピエロ・ソデリーニが共和制を敷くフィレンツェ市政府に書記官として登用される。しかし、1512年にこの政府が崩壊した際にアキアヴェッリはフィレンツェ市内から追放され、隠棲していた時期に本書が書き上げられた。1494年のフランス王シャルル8世のイタリア侵攻によって、フィレンツェにおけるメディチ家支配が一旦は崩壊したのだが、その後の共和制(民衆制)も国際政治の荒波にもまれる中で崩壊し、メディチ家が再び力を持ち始めた。君主論は、共和制崩壊後にメディチ家に接近する目的で、ジュリアーノ・デ・メディチに献呈するために書かれたものである(しかし、実際に献呈できたのはジュリアーノに代わって実質的支配者となったウルビーノ公)。

本書は、部下を持って組織をマネジメントする人にとってもかなり参考になるものと思われる。そこで自分が気になったところを紹介する。

第ニ章 世襲の君主権について
君主の血統に服従してきた世襲的な領域を維持するのは容易である。それというのもそれを維持するには先祖伝来の秩序から逸脱しないようにし、もろもろの出来ごとにたいして適切に対処するのみで十分であるからである。」とある。要するに今の会社のような組織で言うと、社長の職をその子供が継いだ場合、子には特別な才能は必要ない。問題が起きた時に対処できる程度の能力があればOKということだろう。
自分が勤めている化粧品メーカーは、親族経営でやってきて現社長は創業者の三代目である。ここ数年は売り上げが芳しくなく、今年は賞与が減っている・・・。ということは今の社長は「もろもろの出来ごとにたいして適切に対処」出来ていないのであろうか。もちろん組織である限り、社長一人だけのせいでは無く、会社を大きくした先代の頃と比べて会社に何かが足りていないはずだ。

第七章 他人の武力または幸運によって得た君主権について
単に幸運によって恵まれたため私人から君主になった者は、君主になるにあたって殆ど苦労を必要としない半面、それを維持するに際しては多くの困難に遭遇する。そして彼らは自らの地位を保つ方策を知らず、保つこともできない。」とある。この章でマキアヴェッリは、運良く君主になった者はその地位を維持するためには相当な努力を要すると述べている。その例として、彼が理想の君主と目したチョーザレ・ボルジアを挙げている。チョーザレ・ボルジアは父の幸運に恵まれて支配権を獲得し、彼の類稀な能力のお陰でその地位を維持したとのことである。
会社でも、ただ単に長く居るだけ、ゴマを擂って上長に気に入られただけで管理職になった人間に部下が付いて来ないのもこれと同じことであろう。

第十七章 残酷さと慈悲深さとについて、敬愛されるのと恐れられるのとではどちらがよいか
君主は残酷だという汚名を気にかけるべきではない。実際あまりにも慈悲深いためかえって混乱状態を招き、殺戮と略奪とを放置する支配者と比較して、彼(残酷だとされる支配者)は極めて少ない処罰を行うだけであるからより慈悲深いことになろう。なぜならば前者は全ての人々に害を与えるのに対して、後者の場合には君主の行う処罰を蒙るのは一部の人々のみであるからである。」とある。これは悪いことをした人間にはきっちり処罰を行わなければ、好き勝手されて害を被る人間が増えてしまうということであろう。
また会社に例えて恐縮だが、会社の金を横領したした奴、セクハラした奴にはちゃんと罰則を科して、下の人間に示しを付けなくては組織は混乱する。多めに見ることは決して優しさではない!

後輩からおちょくられている自分がマキアヴェッリの言う「憎悪されない程度に恐れられる君主たれ」を実践するのは難しそうだが、これから指導する機会が増えるであろう自分にとっては大変興味深い本であった。



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